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    「おい、ビールは冷やしてあるかい」

    と、盛子は大げさに滑稽な顔をしてみせた。

    と、突然房一の肩を押へて云つた者がある。いつのまにか、練吉が傍に来ていたのだ。彼は酒の酔ひもさめたと見えて、興奮し、そのために稍強きつい、輪郭のはつきりした顔立ちになつて、一心に土手の方を注視していた。

    それはまるで、よほど深く知り合つた間柄の、何年か見ずにいた者同士だけがやるやうな並外れて馴れ馴れしい様子だつた。

    「や、さうですか。僕も今そこから帰るところです」

    風はすつかり途絶えていた。

    徳次は答へることができないで、又あの不器用な笑顔をつくつた。それから、船がごとんと岸に突きあたるはずみに、房一の前にとび降りると、突拍子な調子で

    「何を云うとる。すまじきものは宮仕へ、といふぢやないか」

    それらのすべてを通じて何よりも房一の胸を強く打つたものはあたりに行きわたつている静寂とそれを支へている平和な気分であつた。それは見る人の心に微妙な落着きを与へそこに住みたいといふ気を起させ、更に、さう思ふだけですぐに自分の暮しの輪郭や断片などを魅力にみちたものとして想像させる、さういふ或る物だつた。現に、あまり空想家でもない房一の心に一瞬浮んだのはその気持だつた。

    その頃、紙衣かみこの神主達の行列は町からかなりはなれた河向ふの路をぞろぞろ歩いていた。

    「徳さんが、――今、そこに、おかみさんが来てるんですわ」

    その頃の宿屋には二階の便所はないので、逗留客はみな下の奥の便所へ行くことになっている。今夜も二階の女の客がその便所へ通って、そとから第一の便所の戸を開けようとしたが開かない。さらに第二の便所の戸を開けようとしたが、これも開かない。そればかりでなく、うちからは戸をこつこつと軽く叩いて、うちには人がいると知らせるのである。そこで、しばらく待っているうちに、他の客も二、三人来あわせた。いつまで待っても出て来ないので、その一人が待ちかねて戸を開けようとすると、やはり開かない。前とおなじように、うちからは戸を軽く叩くのである。しかも二つの便所とも同様であるので、人々もすこしく不思議を感じて来た。

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